日本三大観音
大須観音は、浅草観音、津観音(三重県津市)とともに、日本三大観音に数えられます。
名古屋を代表する観光スポットの一つでもあります。
この記事では、大須観音の歴史をまとめています。
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大須観音の境内では、18日、28日には骨董市が開かれます。
特に28日は大須の縁日ということで、商店街全体が賑わいます。
大須観音の建立の経緯
大須観音のもとのお寺は、建久年間(1190年から1199年)に建立された「中島観音」が発祥とのことです。
中島観音は、尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市桑原町大須)にあったとのことです。
1324年、羽島市大須郷に「北野天満宮」を創建
境内の看板によりますと、鎌倉時代末期の1324年に、後醍醐天皇が、岐阜県羽島市の大須郷に「北野天満宮」を創建しました。
1324年は、日本史でいえば、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して討幕を計画した正中の変が発生しています。
倒幕の動きと関連があったのでしょうか。
1333年、別当寺として真福寺を創建
1333年には、後醍醐天皇により北野天満宮別当職を拝した能信上人が、北野天満宮の別当寺として、真福寺を創建します。
能信上人は、後醍醐天皇にゆかりのある人物のようです。
別当寺とは
神仏習合の時代に、神社を管理するために併設された寺院を、別当寺と呼びます。
真福寺は、北野天満宮(菅原道真を祀る神社)を管理するためのお寺だったようです。
実際に、その名残として、大須観音の裏手に北野神社が祀られています。
1612年に現在地に移転
その後、「清洲越し」の始まった1612年に、徳川家康によって、現在地に移転したとのことです。
移転前から真福寺には経典が集まっており、それが現在の真福寺文庫(大須文庫)として受け継がれています。
大須の地名
「大須」の地名は、岐阜県羽島市の大須と呼ばれる場所に由来します。
現在は岐阜県ですが、当時は尾張国だったようです。
羽島市は、木曽・長良川に挟まれた土地です。
そこには古くから経典の集積地として知られた真福寺がありました。
徳川家康の命令で、1612年に真福寺を、現在の大須に移転させ、そこの地名を取ったのが由来となっています。
大須文庫
真福寺を、現在の名古屋市中区に移転した理由は、木曽・長良川の水害から、真福寺の経典を守ることも目的だったということです。
これが現在の「大須文庫」として引き継がれているとのこと。
大須文庫の中には国内最古の「古事記」の写本もあり、国宝に指定されています。
これらの大須文庫は大須観音の地下に収められています。
1615年に徳川家康は文庫の蔵書の点検を行っています。
北野神社
大須観音の北側に、小さな「北野神社」があります。実はこの神社が大須の前身となったものです。
大須観音は北野天満宮の別当寺
そもそも、大須観音は北野天満宮の別当寺として建立されたものです。
別当寺というのは、前述のように、神社と寺を一体化して信仰する「神仏習合」のためのお寺のことです。
撫牛の像があります。
道真と牛は深いかかわりがあります。
牛の像は、撫でると願いが叶うと言われます。
清洲越し
この北野神社も、「清洲越し」の1612年に、大須観音とともに、現在地に移りました。
お稲荷さんを祀っています。
徳川宗春のカラクリ人形
大須観音のすぐお隣に、7代尾張藩主・徳川宗春のカラクリ人形があります。 徳川宗春のおかげで、江戸時代の大須は、活気のある町になったということです。
尾張藩主・徳川宗春とは?
8代将軍・徳川吉宗の「享保の改革」による倹約推進によって、京都、大阪、江戸の遊郭や芝居文化は失速してしまいました。
しかし、第7代尾張藩主の徳川宗春(1696年-1764年)は、吉宗とは反対の規制緩和政策をとりました。
これによって、名古屋の遊郭や芝居文化は逆に大いに発展しました。
それが現在の大須商店街の原型になったとのことです。
享元絵巻と呼ばれる資料には、当時の賑わいが良く描かれています。
近年になってようやく、徳川宗春の評価が高まりつつあります。