鎌倉街道についての検証本

「中世の東海道をゆく―京から鎌倉へ、旅路の風景」という本を詠んでみました。

いわゆる鎌倉街道と呼ばれる中世の東海道について、やや専門的ながらも、斬新で、読みやすく書かれた本です。

鎌倉時代後期の旅日記「飛鳥井雅有日記」など中世の紀行文の科学的見地にもとづいた読解は、とても刺激的です。

鳴海潟を渡るルート

例えば、紀行文の書かれた日の潮の満ち干を科学的に明らかにして、鳴海潟(鎌倉街道のルート)を渡る旅人の行動をクリアに浮かび上がらせています。

ちなみに、この鳴海潟は、古代の「あゆち潟」の鎌倉時代における名称です。

書籍情報

【詳細】
中世の東海道をゆく―京から鎌倉へ、旅路の風景 (中公新書) 榎原 雅治(著)
新書: 242ページ
出版社: 中央公論新社 (2008/04)

鎌倉街道の呼称

京都鎌倉間を結ぶ中世の東海道を「鎌倉街道」と呼ぶのは、実は江戸時代以降になってから、とのことです。

当時は何と呼ばれていたかについても、本書に書かれています。

いわく単に「海道」と呼ばれていたとのこと。

一日に約四十キロ

当時の旅人は、京都鎌倉間を結ぶ「海道」を、約二週間で歩いたそうです。 早馬なら三、四日で移動できました。

また、京都鎌倉間を結ぶルートは、川を道がわりにしたり、干潟を渡ったり、浜辺を歩いたりと一定ではなかったようです。

それでも、一日に四十キロ前後も歩いていたということは、江戸時代と同じスピードであり、それなりに整備されていたと考えられます。

塩田の描写

印象的だった箇所は、阿仏尼が鳴海潟について記した文章です。

そこには、浜千鳥が飛び交い、蜑 (あま:海辺で漁をする人々)の動きや古びた塩竃があちこちに立っている様が興味深い、と書かれています。

豊かな自然に恵まれた当時の風景が浮かんできます。

千竈通

名古屋市南区の千竈通(ちかまとおり)の地名に、鳴海潟に塩田があった頃の名残をとどめています。