名古屋にも残る、鎌倉へ続く道
日本の歴史の中で、「東海道」という言葉はよく知られています。 多くの人が思い浮かべるのは、江戸時代の五街道の一つとして整備された東海道でしょう。
しかしそれ以前、平安~鎌倉時代にも、京都と関東を結ぶ重要な道路が存在していました。
それが 「鎌倉街道」 と呼ばれる道です。
鎌倉幕府の成立によって政治の中心が関東に移ると、日本列島の交通の重心もまた大きく変化しました。
この変化の中で、京都と鎌倉を結ぶルートとして利用されたのが、後世「鎌倉街道」と呼ばれる道路網です。
実はこの道の痕跡は、現在の名古屋市周辺にも残っています。
この記事では、中世の幹線道路である鎌倉街道の歴史と、そのルートの変遷について見ていきます。
「いざ鎌倉」と駆けつけた道
鎌倉街道とは、鎌倉幕府の拠点である鎌倉へと続く中世の幹線道路網を指します。
鎌倉時代、幕府に仕える武士(御家人)は、将軍からの召集がかかると
「いざ鎌倉」
といって鎌倉へ急行したと伝えられています。
そのとき彼らが駆けつけた道こそが、鎌倉街道でした。
ただし「鎌倉街道」という名称は、実は当時の正式名称ではありません。 この呼称が一般化したのは江戸時代以降と考えられています。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』などの史料には、特定の名称はほとんど見られません。
中世の人々は、この道を単に「海道」と呼んでいたとされています。
歴史研究書『中世の東海道をゆく―京から鎌倉へ、旅路の風景』などでも、この呼称が紹介されています。
つまり鎌倉街道とは、後世の研究者が便宜的につけた名称といえます。
中世の幹線道路としての役割
鎌倉街道は、京都と鎌倉を結ぶ主要交通路として利用されました。
その距離はおよそ125里(約500km)ともいわれます。
江戸時代の東海道のように、整然とした宿場町が整備されていたわけではありませんが、
- 武士
- 商人
- 僧侶
- 旅人
など、多くの人々が行き交う重要なルートでした。
この道路網は、平安時代末期から戦国時代頃まで、長く利用されたと考えられています。
特に鎌倉幕府の時代には、
- 政治
- 軍事
- 経済
の面で、東日本と西日本を結ぶ重要な動脈となっていました。
名古屋を通る鎌倉街道
鎌倉街道は一本の道ではなく、いくつかのルートが存在しました。
そのうちの一つが、尾張地方(名古屋周辺)を通るルートです。
京都から東へ進むと、
- 近江
- 伊勢
- 尾張
- 三河
- 遠江
といった地域を通過し、関東へ向かいます。
このルートは、後の東海道と近い地域を通るものの、現在知られている東海道とは必ずしも同じではありません。
名古屋周辺でも、
- 古い道筋
- 地名
- 寺社の位置
などから、かつてのルートが推定されています。
ただし中世の道路は舗装されていたわけではないため、現在では、明確な遺構が残っている場所は多くありません。
江戸時代には道筋が分からなくなっていた
鎌倉街道は戦国時代頃まで利用されていたと考えられています。
しかし江戸時代に入ると、交通体系が大きく変化します。
徳川幕府は
- 五街道
- 宿場町
- 関所
などを整備し、全国の交通網を再編しました。
その中心となったのが、江戸と京都を結ぶ「東海道」です。
この新しい東海道の整備によって、中世の鎌倉街道は次第に使われなくなりました。
結果として、江戸時代にはすでに道筋が分からなくなっていた、ともいわれています。
現在では、
- 古文書
- 地形
- 地名
- 寺社の位置
などを手がかりに、歴史愛好家たちが、鎌倉街道のルートを推定しています。
東海道の歴史は一つではない
ここで重要なのは、東海道という道は一つではない、という点です。
実は時代ごとに、東西交通のルートは大きく変化しています。
古代の東海道(律令国家)
古代日本には「五畿七道」と呼ばれる行政区分がありました。
その一つが「東海道」です。
この東海道には、
- 伊勢
- 尾張
- 三河
- 遠江
- 駿河
- 相模
などの国が含まれていました。
駅路
また各国の国府を結ぶために、国家が整備した道路がありました。
これが「駅路(えきろ)」と呼ばれる、幅員12m程度の直線的な道路です。
駅路には。
- 駅家(うまや)
- 馬の乗り継ぎ制度
などが整備されており、当時としてはかなり高度な交通インフラでした。
名古屋市内の駅家の場所
この古代の東海道「駅路」については、尾張国には、「馬津、新溝、両村」の3つの駅家がありました。
しかし、現在ではその駅家の場所が不明となっています。
新溝駅
このうち「新溝駅」の場所は、
- 名古屋市中区古渡周辺
- 岩倉市
- 西区
などの説があります。
両村駅
「両村駅」場所は、
- 二村付近(豊明市)
- 島田付近(天白区)
- 白土付近(東郷町)
- 傍示本以北(東郷町)
といった説があります。
中世の東海道(鎌倉街道)
平安時代末期から鎌倉時代になると、政治の中心が京都から鎌倉へ移ります。
これに伴い、京都と鎌倉を結ぶ新しい交通ルートが重要になります。
これが、後に鎌倉街道と呼ばれる道です。
近世の東海道(五街道)
江戸時代になると、徳川幕府は全国交通網を整備します。
その代表が東海道五十三次で知られる「東海道」です。
江戸から京都まで、
- 宿場町
- 本陣
- 関所
などが整備され、日本最大の交通路となりました。
道は時代とともに変わる
こうして見ると、東西交通のルートは
- 古代
- 中世
- 近世
- 近代
と、時代ごとに大きく変化しています。
その理由には
- 政治権力の変化
- 河川や地形の変化
- 交通手段の発達
などがあります。
例えば明治時代には、
- 鉄道
- 国道
の整備によって、東海道のルートはさらに再編されました。
現在の
- JR東海道本線
- 東海道新幹線
- 国道1号
なども、この長い交通の歴史の延長線上にあります。
名古屋に残る「中世の道」
現在の名古屋市内では、鎌倉街道の明確な遺構は多くありません。
しかし
- 古い寺社
- 地名
- 古道
などの中に、中世の交通の痕跡が残っていると考えられています。
何気なく歩いている街の道も、実は何百年も前の旅人や武士たちが通った道かもしれません。
現代の都市の下には、こうした「中世の道の記憶」が静かに埋もれているのです。