豊明市と緑区に広がるエリア
緑区と豊明市にまたがって広がる桶狭間地域は、合戦にゆかりのある史跡があちこちに残っています。
少なくとも2万を超える兵力が集まったため、合戦があった区域はかなり広大です。
そのため、桶狭間古戦場跡地とされる場所は、豊明市と緑区の2つがあります。
- 緑区の「桶狭間古戦場公園」
- 豊明市の「桶狭間古戦場跡地」
前のページでは、緑区の「桶狭間古戦場公園」を中心とした史跡を紹介しましたが、このページでは、主に豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」について紹介しています。
緑区についてはこちら>桶狭間の合戦と古戦場
有松に近い観光スポット
桶狭間地区は、江戸時代の街並みが残る有松地区と近いため、セットで観光することができます。
有松は、名古屋の代表的な伝統工芸品である有松絞りの生産地として全国に知られます。
豊明市の桶狭間古戦場伝説地
今川義元が打ち取られたとされる場所は、緑区と豊明市の2つがあります。
豊明市といっても、緑区のすぐ近くですので、緑区の「桶狭間古戦場公園」からは、徒歩でも行ける距離です。
国指定史跡
豊明市の方は、国指定史跡の桶狭間古戦場伝説地となっており、江戸時代の石碑などが立ち並んでいます。
桶狭弔古碑
今川重臣・松井宗信の子孫が建てたとされる「桶狭弔古碑」があります。
江戸時代に建てられたものです。
文章はこちらにあります。
「今川治部大輔義元墓」と「今川義元仏式の墓」
史跡内には、2つの今川義元の墓があります。
「今川治部大輔義元墓」は史跡の入り口付近にあります。
「今川義元仏式の墓」は万延元年に建てられたとのことです。
道路で隔てられた場所にあります。
七石表(一号碑)
尾張藩士によって建てられた七基の石碑があります。
一号碑は今川義元、二号碑は松井宗信の戦死の場所とされます。
史跡内に点在しています。
お化け地蔵
尾張藩士が建立。
この地蔵尊の建立により、亡霊が現れなくなったといわれます。
松井兵部少輔宗信墓
義元とともに討死した松井宗信の墓碑があります。
陸軍・松井石根は松井氏の子孫で、たびたび墓碑に訪れたといいます。
戦人塚
豊明市前後町にある戦死者約2500人を供養した塚とのことです。
曹源寺の住職が供養を続けています。
古戦場跡地からはやや距離があります。
緑区と豊明市の論争
桶狭間には、2つの古戦場跡地があります。
名古屋市緑区と豊明市に分かれているので、どちらが本物かといった論争が昔からあるとのことです。
「古戦場まつり」を毎年、緑区と豊明市の両方で開催しています。
緑区
緑区のものは、「桶狭間古戦場公園」です。
2010年に義元と信長の銅像が立てられました。
義元の馬をつないだ「ねずの木」や、今川公水汲みの泉、首荒いの泉などがあります。
豊明市
一方、豊明市のものは、「桶狭間古戦場伝説地」と呼ばれる場所です。
義元本陣跡の碑、義元の墓、古戦場資料館、古戦場址公園などがあります。
1937年に国から史跡としての指定を受けたので、豊明市側は、こちらが本家と主張しているとのこと。
結論は?
どちらが本物かというと、資料が少ないので結論は出ないということです(「信長公記」「信長記」など、記述がまちまちとのこと)。
ただ、数千~万単位の軍勢がぶつかり合う合戦の場所は、物理的に広範囲に及ぶため、数キロも離れていない両者は、どちらも本物の古戦場跡地といえる、とのことです。
個人的見解
結局のところ定説はないため、新発見がない限り、緑区と豊明市の論争には結論はでないそうです。
ただ、どちらの場所も、なんらかの史実に関わっているような気がします。
実際に両方を訪問してみて、個人の直感にゆだねればいいのではないかと思います。
緑区の史跡はこちら:名古屋市緑区と豊明市に広がる桶狭間古戦場の史跡