この記事では、名古屋市緑区と豊明市に広がる桶狭間古戦場の史跡を紹介しています。
桶狭間の戦いのおおまかな概要については、こちらにまとめました。
事前の調査が必要
桶狭間の古戦場跡を実際に見て回ると、距離感や地形が把握できるので、理解が深まります。
しかしながら、史跡は広大な範囲に点在していて、丁寧に巡ると、まる一日がかりとなります。
また多くのポイントが宅地の中にあり、場所が分かりにくいため、地図が必要です。
実際に史跡巡りをするまえに、合戦の背景や地図などを十分に下調べしておく必要があります。
Googleマップとスマホの位置情報機能などを使って巡るのがオススメです。
進軍ルート
参考までに、今川・織田両陣営の進軍ルート(想定)はこちらです。
史跡巡り
鳴海城と三つの砦
今回のスタート地点は、緑区の鳴海城と、それを囲む三つの砦からになりました。
信長は、今川義元方の鳴海城を包囲するように、丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三つの砦を築きました。
1. 丹下砦
丹下砦は、光明寺と、成海神社の中間あたりに位置します。現存せず。
2. 善照寺砦
善照寺砦は、一辺50メートルの堀と土塁を巡らせた館だったとのことです。
「19ヶ条の折檻状」で知られる佐久間信盛が守りました。
奇襲の際は、信長は善照寺砦に兵力を集めた、といいます。
敵方の鳴海城からは見えない位置にあったことが、奇襲の成功のポイントだったという説があります。
善照寺砦は現在は公園となっており、桶狭間山が見える高台となっています。
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見晴らしがよい場所です。
信長の気分になれるかもしれません。
3. 中嶋砦
中嶋砦は、奇襲の際の最前線の砦で、扇川と手越川の合流地点の宅地にあります。
遺跡は現存せず、「中島城址」の石碑があります。
鳴海城
別名「根古屋城(ねごやじょう)」。
城主は、今川義元方の岡部元信。
桶狭間合戦では最後まで落城せず、交渉の結果、岡部元信は信長に城を明け渡しました。
遺跡は現存せず、現在は、鳴海城跡公園となっています。
緑区の桶狭間界隈
高根山
高根山は、有松と桶狭間の中間にある丘陵です。
今川の先遣隊・松井宗信が守っていました。
一旦は織田方を撃退して、今川義元を油断させた、といわれます。
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標高54メートルで、三つの砦や、名古屋駅の高層ビル群も見渡せます。
釜ヶ谷
釜ヶ谷は、名古屋短期大学の敷地内にあります。
中島砦から進軍した信長が、突然の雨の中、今川本陣への突撃のチャンスを待っていた、とされます。
とはいうものの、信長の進軍には諸説あります。
また信長は、桶狭間の勝利後、全軍を釜ヶ谷付近に集め、勝どきをあげた、とのことです。
七ツ塚
合戦の後、信長は、村人に命じて、七つの穴を掘って埋葬したと言われます。
この七ツ塚は、最近まで残っていた塚の一つだそうです。
瀬名氏俊陣地跡
義元の先発隊・瀬名氏俊は、この瀬名氏俊陣地跡に布陣したとのことです。
「瀬名」の地名は静岡市内に残っています。
桶狭間神明社
瀬名氏俊は、布陣後、近くにある桶狭間神明社へ戦勝を祈願したとのことです。
瀬名氏俊が奉納した酒桶が保存されているそうです。
尾張藩第4代藩主徳川吉通の「お手植えの杉」もあります。
戦評の松
今川家家臣・瀬名氏俊は、松の下で軍議を開いたといわれます。
初代の松は伊勢湾台風で枯れ、現在の松は3代目とのことです。
長福寺
長福寺は、今川義元の供養寺として知られます。
信長は、長福寺の境内で義元や家臣たちの首実検をしたとのことです。
今川義元・松井宗信の木像も保存されています。
落ち着いた佇まいのお寺です。
おけはざま山
おけはざま山は、今川義元の本陣があったとされる場所です。
今川義元本陣跡
今川義元本陣跡の石碑があります。
緑区の桶狭間古戦場公園から坂道を登った途中にあります。
宅地の中にあるため、分かりにくいかもしれません。
桶狭間古戦場公園
緑区の桶狭間古戦場公園の一帯は、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が打ち取られた地といわれます。
織田信長と今川義元の銅像があるため、見つけやすい場所です。
今川義元の墓や、ゆかりの史跡が点在しています。
ここを起点に巡ると良いと思います。
2つの古戦場跡地
豊明市と緑区
桶狭間には2つの古戦場跡地があります。
今川義元が打ち取られたとされる場所は、豊明市にもあります。
どちらが本物か、論争が続いています。
緑区のすぐ近く
豊明市といっても、緑区のすぐ近くですので、徒歩でも行ける距離です。
国指定史跡「桶狭間古戦場伝説地」となっており、江戸時代の石碑などが立ち並んでいます。
詳しくはこちら:豊明市の桶狭間古戦場跡地