江戸時代、徳川御三家の中でも「筆頭」とされた尾張徳川家は、将軍家に最も近い存在でありながら、実は江戸幕府と「微妙な緊張関係」を抱え続けた藩でもありました。
それは露骨な反乱ではありません。
しかし、代々にわたって流れる独特の自尊意識と尊王思想が、幕府にとって常に「潜在的な脅威」となっていました。
この記事では、尾張藩と江戸幕府の関係を、三人の尾張藩主
- 初代藩主・徳川義直
- 七代藩主・徳川宗春
- 十四代藩主・徳川慶勝
を軸にたどります。
初代藩主・徳川義直
尾張藩の基調を決定づけたのは、初代藩主・徳川義直です。
徳川家康の九男で、学問を好み、儒学・尊皇思想に傾倒しました。
義直は藩訓として、
「王命に依って催さるる事」
を伝えます。 これは、「朝廷の命令があれば将軍の命令より優先せよ」という意味を含んでいました。
将軍家の親族でありながら、「朝廷を上位に置く」という思想です。
これは幕府の武家絶対体制とは微妙にずれていました。
徳川家光の重病事件
1630年代、三代将軍家光が重病に陥った際、義直は大軍を率いて江戸へ入城します。
表向きは「万一に備える忠義」ですが、幕閣はこれを武力誇示・権力介入の可能性として、警戒しました。
七代藩主・徳川宗春
18世紀、尾張は再び幕府と衝突します。
七代藩主・徳川宗春は、八代将軍吉宗の「享保の改革」に真っ向から逆らいました。
吉宗は倹約と緊縮を掲げます。 それに対し宗春は「行き過ぎた倹約は庶民を苦しめる」と主張します。
宗春は名古屋で、
- 芝居・遊郭の公認
- 祭りの奨励
- 華美な服装の許可
という規制緩和・積極経済政策を実施します。
結果、名古屋城下は活況を呈します。
しかし幕府から見れば、将軍に対する公然たる逆張りでした。
1739年、宗春は隠居・幽閉させられます。 墓には金網がかけられるという異例の扱いを受けます。
尾張は再び、「警戒される御三家」となりました。
十四代藩主・徳川慶勝
幕末、十四代藩主となったのが徳川慶勝です。
慶勝は尊王攘夷派でしたが、単純な倒幕論者ではなく、目指したのは公武一和(朝廷と幕府の調和)でした。
しかし、
- 安政の大獄への批判
- 長州征討での寛大処置
- 王政復古への参加
と、結果的に幕府と距離を取る行動が続きます。
1868年、尾張藩は徳川一門でありながら、官軍側に立ちます。薩長に匹敵する有力藩が官軍側に付いたことで、趨勢が決定したといえます。
義直以来の「朝廷優先」という思想が、こうして歴史を動かす結果となりました。
尾張気質とは
尾張藩の歴史を眺めると、
- 義直の尊王思想
- 宗春の経済重視
- 慶勝の現実的転換
は一つの流れを成しています。
それは、中央(江戸)に従属せず、しかし現実的に立ち回る、という「反骨的現実主義」です。
さらに言えば、江戸幕府を「ライバル」と見なす対等意識もうかがえます。
現代の名古屋にも、
- 東京に依存しない独自志向
- 派手さと実利の両立
- 中央と距離を取る感覚
があると言われます。
これは、江戸期から続く尾張の「心性」の延長かもしれません。